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宍倉先生

社会医療法人社団正朋会 宍倉病院副院長 宍倉朋胤

ドクターズストーリー

社会医療法人社団正朋会 宍倉病院(茂原市) 副院長
1992年旭川医科大学医学部卒業後、同年4月千葉大学附属病院第一外科入局。
多くの病院で幅広く外科診療に従事した後、2002年4月より医療法人社団正朋会宍倉病院(現社会医療法人社団正朋会宍倉病院)副院長に就任し、外科医・総合診療医として地域医療に従事。
2011年3月11日の東日本大震災医療救護を契機に、災害医療にも積極的に取り組み、特に災害拠点病院の整備されていない地域における災害医療を、住民・医師会・行政との連携で補完していくシステムを研究中。医学博士。
所属学会(日本外科学会、日本プライマリーケア連合学会、日本集団災害医学会)など。千葉県医師会理事、茂原市長生郡医師会理事。地域災害医療コーディネーター。千葉県DMAT隊員。MCLS(多数傷病者への医療対応標準化トレーニングコース)インストラクター。

「老若男女、症状を問わず、うちは外来に来られる患者さんのためならなんでもやりますよ」と笑うのは「宍倉病院」副院長の宍倉先生。
千葉県茂原市の茂原駅近くに昭和16年に開院した同院の歴史は、地域医療を支え続けた年月でもあり、その言葉通り垣根のない地域医療を実践することで、今では地域に欠かせない存在になっています。
ただ、これまでの宍倉病院の歴史は順風満帆ではなかったようです。
医師を志したきっかけから宍倉病院の苦難、苦難を乗り越えた今、地域の活動を精力的にこなしながら、なおも地域医療に情熱を燃やし続ける宍倉先生に、患者さんへの思いを含めじっくりとうかがいました。

外観

「父の感謝される姿」が医師への道しるべ

——医師を目指したきっかけを教えてください。

私は宍倉病院の三代目になります。生家のすぐ隣に病院があったため医療を当たり前に感じて育ちました。病院へは遊びに行くような感覚で出入りしていましたし、院内で何かイベントがあれば普通に参加してました(笑)。
頻繁に病院に行っていると、当然救急外来などに運ばれてくる患者さんを目にします。自分の父親が治療にあったっている姿を見ていて「困っている人から感謝される仕事をしているんだ」という漠然としたイメージは子供のころにすでに持っていたと思います。
だいたいの人が、高校生の頃にその後の進路や社会人として何をするかと現実的に考えますよね。もちろん私にもたくさんの選択肢があったのですが、やはり医療の道に進もうと決めました。たぶんこの決断の根底にあったのは、幼い頃の「父親が治療によって患者さんやそのご家族から笑顔を取り戻し、感謝されている姿」だったのだと思います。

——今も院長として仕事されているお父様の影響は大きかったのでしょうか。

例えば父親の代から来られている患者さんとは最初から仲良く話せますし、医師会の仕事で自分より一回り以上も年上の先生と話をする時にも、「宍倉病院の息子」というのが名刺代わりになってくれます。父とは30歳離れており、現在求められている医療の姿は父の現役時代とはまったく違ってきています。基本的な医療のことで指導や注意をされたことはほぼありませんが、父親が地域の医師として内科・外科を問わず総合的な医療を実践している姿に小さい頃に触れているので、背中を見て教わった、感じた部分は数え切れないくらいにあるのではないでしょうか。

医学生から研修医時代へ

——医学生の頃はどんなことをされていましたか。

高校卒業後に入学したのは旭川医科大学です。医学部の頃は基本的には勉強が中心なのですが、外科医として長時間の手術をするには体力も必要だと考えていて、せっかく旭川に来たのだからとクロスカントリースキーにも打ち込んでいました。
勉強とスポーツの両方をこなしていたんで、とにかく時間がない(笑)。
もう授業はその時間の内容を一回で覚えるくらいの気合いで望んでいましたね。クロスカントリースキーの方はどうかというと、その頃は日本のレベルがあまり高くなかったこともあって、「これはもしかしたらオリンピックを狙えるかも!」というところまで行ったのですが、やはり医学部との両立は難しく断念してしまいました(笑)。

受付

「スペシャリストよりゼネラリスト」
その信念を後押ししてくれた小笠原勤務

——医学部卒業後は、地元である千葉県に戻って来られましたね。

最初の勤務地は千葉大学医学部附属病院です。第一外科に入局しましたが、がんセンターや大きな病院で教授になってやるという考えはなく、最終的には宍倉病院に戻ってくるつもりでした。
「自分がなぜ医者になろうと思ったか」というバックグラウンドを考えた時に、自分の昔からの仲間や地域を助ける医者になろうという思いが強かったのです。医学部を卒業してどうしようかと考えた時にはもう「地域医療」一本で、という考えでした。
一方で、地域医療にとって一番有益な技術は何だろうかとも考えていました。内科の医師は手術ができませんが、外科の医師は高血圧や糖尿病も診ることができる。あまりに専門的な領域ではなく広いニーズに応えられるのは外科ではないだろうか、という判断がありました。

——小笠原の母島診療所で勤務されたとお聞きしました。

私はこれまでいくつかの病院に勤務しているのですが、中でも印象に残っているのは都立府中病院です。都立の病院ですから、同じ東京都の離島への医師派遣も役割の一つになっています。そうしたツテで小笠原の母島に行くことができました。
母島には医師がいますが、島に居着いてしまうと医療技術が遅れることがあるので、年間で三ヶ月は本島に来て様々な研修をすることになっていました。その医師が不在の三ヶ月間を埋めるために、期間限定で東京都の病院から赴任したい医師を募集するんですね。毎年希望者は本当に多いのですが、私は運良く出向く機会に恵まれました。
小笠原の医療というと遅れている印象を持たれるかもしれませんが、設備はかなり整っていますし、都会から移り住んだ方などもいるため、要求される医療レベルも決して低くありません。
ただ、その反面、病院の規模としては医師、看護師が1人ずつです。まさに『Dr.コトー』の世界ですね(笑)。そのため、本当に1人でなんでもできなければならないんです。スーパーマンというと言い過ぎですけど…。

——都心の病院の常識がくつがえされる体験ですね。

もし私が初めから宍倉病院に帰ってきたら、陸続きの医療体制があるので、分からない症状や手に負えない患者さんは他の病院へという考えになっていたかもしれません。
その点、小笠原のような離島では簡単に他の病院に助けてもらうことができないんです。ですから、もう必死というか(笑)。
もしも本土の病院へ送らなければならないケースでは、こういう症状でこうした処置が必要なので絶対に助けが必要だという根拠を示さなければなりません。離島という特殊な環境であるが故に、厳密な知識や症状を正確に見極める目が鍛えられましたね。
昔から自分自身でもゼネラリストを目指していましたが、小笠原での勤務はその信念を後押ししてくれる貴重な経験だったと思っています。